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親子関係は人生の課題をマスターする修行道場、『融合』と『分離』の課題

 

今年は春に一時帰国しないと決めていたのですが、外が明るく春らしいお天気になって来たら桜が恋しくなってきましてね!日本に帰りたい!!!

どうしよう、次回の一時帰国(未定)まで正気を保てるでしょうか?

嗚呼にほ~~~ん!!

 

これは桜ではないが去年春

 


 

 

さて。

ある実母と確執のある方が20分くらいのお話の中で

『お母さん』という言葉を一体何回使うんだい?

ってくらいお母さんお母さん言いながらお二人の関係を語ってらっしゃいました。

 

その方は話の最後に、母親からの言葉と自分に対する想いを『そうか!!』と腑に落ちて受け止めて、初めて母と完全に一体になったのだと。

その衝撃的な経験を皆に聞いて欲しい!というものだったのですが。

 

聞いていて

この方は母親を練習台に『融合・統合』を経験する、マスターするという人生の大きな課題を、見事成し遂げられたのだな

と思ったのです。

 

親を練習台というなんて!

と思われる方がいるかも知れませんが、親子関係ほどの究極の修行道場ってありませんからね。

 

Woman Carrying a Child Downstairs, 1636 Rembrandt

 

何故そう思ったかというと私の人生の大きな課題に

母親を練習台に『分離』を完全に理解し体験しマスターする

というものがあるからです。

少なくとも私はそう確信しています。

 

これ何も考えずに聞き流すと

すったもんだあったけれどやはり親子だもの、丸く収束してこそ正しいよね

といわゆる『美談』の方がいいと、そちらに持って行きたがりますよね。世間は。

 

でも『融合・統合』と『分離、離散』ってどちらが良い悪いではありません

守りが良くて攻撃は悪い、なんてないように。

どちらも大切

夏はよくて冬は悪い、夜はよくて昼はダメ、引き潮は良いけれど満ち潮は不要、も同じく。

これらって表裏の関係である陰陽の一種です。

自然界には両方とも必要。

 

 

なので『融合』を突き詰めてつきつめて行くと、ある時陰陽がぐるっとひっくり返って今度は『分離』に辿り着く。

『分離』→『融合』も同じく。

 

親子って面倒ですよね、ただ血が繋がっているというだけの他人なのに。

他人なのに他人じゃない。

他人なのに情が絡む。

なので本当の意味で親子で『融合』したり『分離』したりというのはいずれもとても難しい。

しかし人間関係は全てそこがベースになっているので、親子関係という最難関にまともに取り組んでそこで課題をクリアすれば後は自動的についてくる。

 

その方がお母さんお母さんと連呼していた、その感覚は分かりますよ。それは誰でもそうではないでしょうか。

arte の『養子 国境を越えたスキャンダル』という番組を観ているのですが(まだ途中)

ここでも韓国からヨーロッパに養子に出された人が、自分のルーツを探さずにはいられないと過去を辿る話が出てきます。

 

ただ血が繋がっているだけの他人なのに、人は皆親にこだわる。いくつになっても。

きっとそのようにプログラミングされた生き物なのでしょう。

何故ならそれは『親子関係』という道場でこそ各々に課された最難関の課題をクリアできるから。どうしてもそこを避けて通れないように作られている。

 

面倒臭いですねー!!

書いててゲンナリするわ(笑

 

ゲンナリ

 

で、私の場合は親子関係で『分離』を学ぶことが今世のテーマの一つ。

これはとりあえず離れて生活すればOKみたいな話ではありません。それは初動として、もしくは全体の一部としては有効ねというだけ。

 

当然私も上記のようにプログラミングされた存在なわけです。

それをこの世では『依存』といったりもしますね。

そこから『気』も『体』も完全に『分離』独立し、向こうも一人の人間、こちらも一人の人間と(儒教や社会常識みたいな余計な価値観を入れず)ニュートラルに捉え直す。

その上でこれまでの流れを冷静に事実ベースで判断して、離れる必要があればきちんと離れる。

 

そこができんのか?あ゛ぁ?

ええんかそのままで??

 

と天から繰り返し尋問されるわけですよ、猛烈な不快感と痛みを通じて。

 

まあ悶絶しますよ。

何年も七転八倒でのたうち回る地獄の苦しみ。

常に『これでいいのか』の自問自答。

自分の感覚およびしていることは社会が『美』とすることと真反対で、非難されることはあれど賞賛されることはないという逆風付き。

 

びゅー

 

それでも今、心がの状態をキープできているのはその地獄を乗り越えたから。

 

親子関係における課題と書きましたが、課題である以上向こう側視点からもそれは課題であるはずです。

つまりこちらが中途半端に(世に蔓延する)臭いものに蓋の美談方式 に流されてしまうと、向こうにとっても課題は達成されないままになる

 

密室であれだけのことを小さな子ども相手にせっせと20余年もし続けた、その結果今こうなっている。そのことの意味を理解し、その帰結を体験するという課題。

それを通して『分離』を完全にマスターするという今世のテーマ。

 

つまり今世の課題達成はある意味、共同作業なわけなのです。

 

それを何となく中途半端で終わってしまうからこそ、同じメンバーで何度生まれ変わっても同じような関係性で、同じような課題ばかり引っ提げてこの世に出てくる。

私はもうそれはご免なのですよね。何回落第しとんねん?と。

これはもう今世限りで絶対に卒業しよう。

 

野木崎 by 高橋松亭

 

もちろんその課題を達成した暁には、死後にまた『統合(融合)』もあり得るでしょう。それは常に入れ代わり立ち代わり回転して進むものだから。

でも一つクリアすれば、次は同じ『融合』や『分離』でも1段レベルが上がった、内容の違うものになってくる。

 

そんなことを、人生の大きなテーマを達成して晴れ晴れしたお顔のその方を見ながら思いました。

 

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本日もお読みいただきありがとうございました。

 

ちなみに親子関係と書きましたが、親子関係はメインなれどそれが夫婦関係、兄弟関係で出る場合もあるでしょう。

でもやはり誰にでも必ず漏れなく準備されている修行道場として、家族が存在すると言っても過言じゃないわ。

だから面倒臭いねんってばー!

 

ちなみに七転八倒の地獄を歩いていた時期よく聴いていたのがシューベルトの『Winterreise/冬の旅』。

 

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