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「牡丹江の戦い」で亡くなった先祖

 

戸籍を辿ってご先祖の命式を少しずつ出して行っているのですが、気になるのは戦争で(多分)招集され、中国で戦死し、ついには日本に帰って来られなかった方。

 

分かる、分かりますぞ!

私はあなたの無念を晴らすためにも、絶対に!日本で!死にますので!お任せください!!

 

などと思いつつ当時そこで何があったか調べてみると、そんな「分かる」などと言う言葉も憚られるようなお話でした。それこそまさに 牡丹江の戦い

 

中華民国 黒竜江省(当時の牡丹江省)は満州国の東北部でソ連国境に近く、鉄道の要衝として発展し、関東軍の基地や日本人開拓団が多く存在した重要な都市であった。

そこを生活の拠点として利用していたのが日本軍守備隊や現地の警察遊撃隊であり、住民や日本人開拓団も警備に参加。

1944~1945年は戦況の悪化にもかかわらず鉄道や軍事施設の建設・改修工事が続き、建設には日本人技術者や現地の労働者が動員され、厳しい環境下での作業は続いた。

 

緯度が高すぎて寒すぎて見るだけで辛い

 

1945年 8月9日未明 ソ連軍が満州に侵攻し黒竜江省も攻撃対象となる。

日本軍は9月中旬までにソ連に攻撃準備ができているとは思っておらず、8月に攻撃が始まった際、不意を突かれた形となった。

8月9日~12日 隠伏された対戦車砲や爆薬を背負った日本の特攻兵が戦車に飛び込む肉弾攻撃に加えて、折からの集中豪雨も相まってソ連軍は進軍を困難にした。

8月13日の朝には日本軍の兵員・物資を載せた軍用列車がソ連軍の戦車部隊の奇襲攻撃を受け、日本兵約900名が戦死。

8月14日 対戦車砲と特攻兵による肉弾攻撃は未だ健在であったが、こうした攻撃は日本兵個人の狂信的な攻撃精神に依存しており、ソ連軍戦車に打撃を与えたものの日本軍の人的損失は非常に大きかった。

 


満州国の牡丹江に入城するソ連軍騎馬部隊

 

最終的に双方の犠牲者は多く、日本側は戦闘に参加した第5軍および第1方面軍の他の隷下部隊から、死者9,391名を含む総計25,000人の損耗人員と大砲104門の喪失を報告した。それと引き換えに彼らは7,000〜10,000人のソ連兵に損害を与え300〜600両の戦車を破壊したと主張。

結果在留邦人や開拓団は混乱の中、避難や抑留を余儀なくされた。

 

~次のページに続く~

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